司馬遼太郎 「街道をゆく」 大和・壷坂みち 五 城あとの森 抜粋
  高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古(そうこ)としていていい。
  その石垣も、数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳(ちょうじょう)としている。それが、自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。・・・・・
・・・・・城主が越智氏から筒井氏、本多氏と変わるうちに規模も大きくなり、やがて徳川初期に植村氏が入って、この山奥の急峻に累々と石垣が組みあげられ、近代的な築城形式に模様替えされた。徳川幕府がここに外様大名などを置かず、もっとも信頼できる譜代大名を封(ほう)じ、当時すでに大時代だったこの山城をわざわざ補修改築させたのは、わかるような気もする。幕府の近畿地方の防衛戦略という大きな視野からの判断だったかもしれない。徳川幕府の仮想敵は、家康の代から薩摩の島津氏と防長の毛利氏だった。
・・・・・家康は、島津氏が京都に入って近畿をおさえ、天皇を擁して幕府と対決するだろうという想像をもち、死の寸前までそれが気がかりだったといわれている。架空の状況において、島津氏がもし近畿をおさえた場合、大和の幕軍は平城の郡山城をすててこの高取城にこもり、他の方面の幕軍の巻きかえしを待つという戦略があったのではないか。
・・・・・この城が、幕末、天誅組によって攻められたことがある。
・・・・・城をまもる高取藩には、家康が大阪城攻めに使ったという大砲が、権現(ごんげん)さま(家康)の大筒(おおづつ)ということで江戸期いっぱい藩の宝として大切にされていた。家康がこれをもって大阪城の柱をへし折ったというと当時最大の攻城砲が、高取城のとっておきの重火器だった。
・・・・・高取藩秘蔵の権現砲が火を噴いた。
・・・・・弾が飛び、それが酒井の兜に命中した。酒井はひっくりかえったが、すぐ起きあがった。この夜、一晩中耳鳴りしてねむれなかったという。
・・・・・この程度の古典的戦争をしていた国が、高取城攻めから四十余年後に旅順要塞という近代的要塞を攻撃したのである。それを思うと、明治期の人が一人一人背負わざるをえなかった近代国家の重みというのは、背中も腰骨もくだけるほどに重かったにちがいない。・・・・・

司馬遼太郎 街道をゆく 七 甲賀と伊賀のみち 砂鉄のみちほか 大和・壷坂みち 朝日新聞社
司馬遼太郎 「おお、大砲」 抜粋
  むかし、和州高取の植村藩に、ブリキトースという威力ある大砲が居た。居た、としか言いようのないほど、それは生きもののような扱いを、家中から受けていた。
  六門あった。
  三貫目玉を五丁余(六百メートル)も撃ち渡せるという巨砲で、むろん六門とも、高取植村家二万五千石の藩宝になっていた。
  大砲は、白壁の蔵におさめられていた。蔵は、山上と山麓とにあり、それぞれ三門ずつ格納されていたが、・・・・・
  家康は、冬の陣のまえに和蘭の船長からこの新鋳の大砲を買い、はるばる東海道百三十里をそれぞれ三頭の牛に曳かせて、大阪城の堀端までもって来させ、徳川家の鉄砲方土井外記、中村若狭守を砲兵隊長として連日射撃させた。
  砲声は摂河泉(せつかせん)三国の野にいんいんと響き・・・・・
  とくに淀君が戦慄し、周囲の牢人出身の武将が反対するのも押しきって、冬の陣の屈辱的な講和をあえてした唯一の理由は、この巨砲の砲声にあったことは、幕府の史家たちがひとしく書き残しているところだった。・・・・・
  「高取土佐にすぎたるものは、ブリキトースに反魂丹(はんこんたん)」・・・・・
・・・・・
・・・・・さて、天誅組のほうである。これほど妙な集団はない。・・・・・
・・・・・京都では、数日前に、長州藩の宮廷工作が奏功して、いよいよ天皇が「攘夷親征」を内外に宣布するために、大和に行幸されることが廟議できまったのである。一大事といっていい。天皇が(孝明帝)が大和橿原ノ宮に参拝されることは、全世界に対して宣戦を布告することを意味していた。
・・・・・京都の志士たちは、この朗報に沸きたっていた。・・・・・吉村寅太郎系の浪士のほか・・・
・・天皇の大和行幸の「露払い」をしようときめた。
・・・・・京で政変がおこったのだ。・・・・・有名な長州系の「七卿落ち」はこのときのことである。この政変によって、天誅組は単なる暴徒の位置に転落してしまった。・・・・・解散かあくまで戦うか・・・・・兵は、心配なかった。・・・・・吉野の山中でキコリをする十津川郷士団によびかけたりしてたちまち千人を越すほどの大部隊になった。つぎに、拠るべき城である。天嶮といえば、このあたりでは高取城のほかにない。「高取を略取せよ」と決定したのは・・・・・
・・・・・すでに、高取藩では、かれらを賊徒とみなすという京の中川宮の令旨をうけている。敵は一千。藩兵百五十。軍勢こそ少なかったが、高取には家康購入のブリキトースの巨砲六門があった。
・・・・・「ーーー射て」轟然と砲口は火をふき、鉄丸は天高くけし飛んだ。・・・・・敵がくずれ立っていた。第一弾は当たらなかったが、砲声が敵の胆を奪ったらしく、逃げようとする先鋒と進もうとする中軍とが、ちょうど一本松のあたりで衝突して大混乱を呈していた。・・・・・戦闘は半刻ののち、高取側の圧倒的な勝利でおわった。戦勝の主因は、笠松家のたった一門のブリキトースによるものだった。・・・・・

司馬遼太郎 司馬遼太郎短編総集 講談社